飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ 井村和清著

32歳の若さで癌で命を落とされた井村和清先生の手記。

もともとは井村先生のご家族のために残したかった手記だったが、たくさんの人の心に響き書籍化され、ベストセラーとなり、映画化もされている。

 

部長である私が産まれた年(なんと4日前)に、命を落とされている。

38年経とうとする現在も井村先生の言葉は私達に命の尊さ、医療という仕事、家族について強く考えさせられる。

 

その言葉を紹介しつつ、私も命の大切さを考えてみたい。

カンパや励ましの言葉よりも、私達が本当に求めているのは、あなたの手であり足です。

井村先生が学生の頃、身体障害者施設へなけなしのお金を送ったところ、帰ってきた返事。

私も昨年から高校生ボランティアアワードの仕事に関わらせてもらって、ボランティアとかチャリティに対する考え方が少し変わった。さだまさしさんも同じことをおっしゃっていたのを思い出した。

本当に困っている人が必要とするのは、人の手であり温かさ、災害時の医療支援もへき地・離島への医療支援も同じである。動けるか動けないかが今、正に試されているのだと思う。

自殺する人間は弱い人間、とよく言われます。しかし、私はそうは思わない。自殺という勇気を必要とする行為へ彼を走らせたその苦しみはどんなに大きかったろうと思います。

キッチリ病院に来ないドロップアウト患者、アルコール依存患者、リストカットする患者、病院内で騒ぐ患者は医療者に嫌われます。なぜなら、医療者も人間だから。

医師はよく、「自業自得」という言葉で収めてしまいがちです。

でも、それでも本当にそれでいいのか、これまで悩んできました。なぜなら、どうしてもそのような患者さんたちの気持ちになれなかったからです。

私は医師になってすぐのころ、指導医から「すべての事象には理由がある。その理由を徹底的に追求すのが医師の仕事だ。」と教わって育ちました。

その原則に則るならば、ドロップアウトしてしまう理由、飲むなと言われても飲んでしまう理由、リストカットしてしまう理由ってあるのではないか、たんに根性がないではすまされないのではないかと思っていたのです。

井村先生のこの言葉こそ、医療者として持ち合わせるべき患者・他者への思いなのではないだろうか。

医師と患者の人間関係ほど大切なものはありません。ある意味では患者が医者にとって他人ではなくなった日から、本当の医療が開始されてゆくのかもしれません。

100%確実な医療は訪れることはありません、しかし、100%に近づけることはできるかもしれません。近づける行為こそ医師が患者を思う心かもしれません。

患者が医者を信用しきれず、医者は患者を常に警戒するといった時代がきたら、もう日本には医療はなくなります。病苦の重荷を背負った人はどこまでもそれをひきずり、泣きながら歩いて行かねばならない、そんな世界になってほしくないと思います。

患者が医師を信頼し、医師が患者を思って初めて、命が救われるのではないだろうか。

井村先生は昔から引き継がれたこの「医は仁術」が壊れてほしくない、と切に願ったのではないでしょうか。

みっつの不幸

病人にとって大変に苦しいことがみっつあると思います。

そのひとつは、自分の病気が治る見込みのないことです。

ふたつめは、お金がないことです。

みっつめは、自分の病気を案じてくれる人がいないことです。

井村先生は、この3つ目の不幸が最も病人にとってつらいと書かれています。病気にかかると孤独という恐怖が訪れます。病院という場所は、孤独との闘いなのではないでしょうか。

医師が日常のように遭遇する癌という病気にもし自分がかかったと考えるとその恐怖は計り知れないものでしょう。

自分がその状況になってみないと分からないのは事実かもしれませんが、この3つ目の恐怖が病人それぞれに訪れていると感じながら患者さんと接することは医療人として最も大切なことではないでしょうか。