長生きのゆくえー仏教と医療のかけ橋ー 福住寺公開仏教講演会 第25回記念

私のかかりつけの「お坊さん」に勧めていただいた本。公開仏教講演会でお話しされた、滋賀医科大学名誉教授であり住職でもある早島理(はやしまおさむ)先生の講演から、今回いのちについて考えたいと思います。

我々(医師)は日常生活の中で、医学医療の「生命」と生老病死の「いのち」を使い分けています。

同じ呼び方でもいのちを使い分けている。と言うべきか、医学とは生命を対象とした学問であり、医師は生命を救う技術は学んでも、いのちを対象とした学びは学生時代にはほとんど経験することができません。

するとどうなるか。医師1年目の研修医時代、特に救急外来でいのちの重さに戸惑います。そして、いのちについては医師ひとりひとりが学ばなければならない課題です。医療技術の学びは教科書というレールが敷かれているため、成長を遂げた医師の力量には大きな差はありません。しかし、いのちに対する考え方は誰に教えてもらうわけでもなく、それぞれが実践で身につけていかなければなりません。

でも患者さんが信頼するのは、生命だけでなく、一緒にいのちについて考えてくれる医師ではないかと思うのです。

いのちの昔

早島先生は言います。医療技術の進歩に伴い、いのちについて考えなければならなくなってしまった。それは・・・

「あそこのおばあちゃん、医者から帰されたのだって」

「病院ですることないから家にお帰り」

⇒のこされた時間を自宅で過ごす。

「うちのばあさん病院から帰ってきた。今はまだ話ができるし耳もちゃんと聞こえるから、ご住職さん、家に来て一緒にお経を上げてちょっとお話ししてくれませんか」

つまり、「どうしたら、安らかに死んで往けるか」ということをみんなで考え受け止めていたのです。

そうなんですね~。昔は、お坊さんが最後に看取りの時間を共有していたんですね。親族が亡くなると、過去に経験したことのない、異質な悲しみを感じます。お坊さんと共に最後の道案内をしてもらえば家族も最後を看取るという儀式が出来ます。私はこの儀式が非常に大事だと思います。

いのちの今

今では死を目前にした患者がお坊さんと最後の時間を共有することは、聞いたことはありません。

60年たった今は違います。自分で飯が食えなくなっても、意識がなくなっても、自分で呼吸できなくなっても、そのまんま生かして下さいます。良かったですね。本当に良い時代になりましたね。

人工呼吸器や人工栄養のおかげで、呼吸ができなくなろうが、飯が食えなくなろうが、今はそのまま生かしといてくれるのです。でも、良い時代になりました、と本当に言えるでしょうか?

自分で呼吸ができなくなっても呼吸器によってそのまま生かしておいてくれる。「良い時代に生まれたな」と思っていたら、それをいつまでも続けられませんので、次の問題は、いつまでどのように生かしますか。つまり、いつ点滴外しますか。あるいは、きつい表現をしたら、いつ、どのように、死んでもらいますかということになるのです。その時、だれが、何を根拠に決めるのでしょうか。皆さん方、他人事だと思っているでしょう。これは日本の今の社会では普通になってしまったのです。

生命を対象にしかしかできない医学は「生かす」ためにどうするべきかという考え方しかもつことができません。医療技術が進歩する一昔前は、この「生かす」ことこそが何よりも医療の正義でした。なぜならば、生かすことができなかったからです。今は、生かそうと思えば、意思疎通の出来ない状態で生かすことも可能な時代になったのです。まだまだ解明できていない若い子供が亡くなってしまう病気がたくさんあるということも皮肉なものです。

医師はやはり生命を対象とする役割であり、いのちについては患者本人、家族がリーダーシップをとっていただかないと・・・

平均寿命世界一の日本社会のおおきな問題の1つでしょう。

お医者さんは「どうしたら長生きさせることができるか」、それはやってくれます。しかし「長生きする意味何ですか?」と聞かれたら、お医者さんは困ってしまいます。

この言葉が究極的な表現ではないでしょうか。生きる意味を治すのは医師の仕事ではありません。でも、医師もその患者の人生のドラマに出演する演者であることに違いもありません。

医師と患者がいのちについて考える。

今、そしてこれからさらに必要となる課題ではないでしょうか。