金原ひとみ「マザーアウトロウ」

『マザーアウトロウ』を医療者として読む

――「役割」から外れたとき、人は少し自由になる

マザーアウトロウ を読んだ。

最初は、破天荒な義母に振り回される“嫁姑小説”なのだと思っていた。
しかし読み終えたあとに残ったのは、「家族とは何か」という問いよりも、むしろ、

「人は役割に閉じ込められて生きているのではないか」

という感覚だった。


「普通」という静かな圧力

主人公・波那の前に現れる義母、張子。金色のスーツ。金色の蝶ネクタイ。
初対面で「俺らマブになろうぜ」。

いわゆる“普通の義母”ではない。しかし、この作品の本質は「変わった義母」の面白さではないと思う。むしろ張子は、社会が女性に求める“役割”を次々と壊していく存在として描かれている。

●母らしく ●妻らしく ●嫁らしく ●年相応に ●普通に

そうした見えない圧力に対して、彼女は派手な服と自由奔放さで抵抗している。

だがそれは単なる奇抜さではない。物語を読み進めると、張子の背景には、

●就職時代の性差別 ●セクハラ ●キャリアの挫折 ●家族役割への圧力 ●喪失 ●後悔

が存在していたことがわかる。

つまり現在の“破天荒さ”は、人生に傷ついた人間が、自分を守りながら生き延びるために身につけた形なのだ。


医療でも、人は「役割」に閉じ込められる

この感覚は、臨床現場でも非常によく出会う。患者さんは、いつの間にか、

  • 糖尿病患者

  • 認知症

  • 独居高齢者

  • 終末期

  • クレーマー

  • 不定愁訴

といった“ラベル”で語られる。もちろん医療では分類が必要だ。しかしその分類が強くなりすぎると、私たちは「病気」を診る一方で、「その人」を見失ってしまう。

例えば、

  • 攻撃的な言動の裏に、強い不安が隠れていたり

  • 過剰受診の背景に、孤独や喪失があったり

  • 不定愁訴の奥に、言葉にならない苦しみが存在したり

することがある。症状だけを見ていると理解できないことが、人生の文脈を見ることで初めて理解できる。これは総合診療において、極めて重要な視点だと思う。


身体診察にも通じる「背景を感じる力」

私は身体診察を教える中で、「患者さんの背景を手で感じる」ということをよく考える。

身体所見は単なるテクニックではない。その人の生活、歴史、苦労、老い、孤独が、身体には滲み出る。『マザーアウトロウ』を読んでいて感じたのは、張子という人物もまた、“症状”だけを見れば理解できない存在だということだった。派手・距離感がおかしい・暴走する。

しかし背景を知ると、それらは「異常」ではなく、その人が生き延びるために獲得した表現に見えてくる。

これは、医療において患者さんを見る視点と非常によく似ている。


「マブ」という関係性

この小説で印象的なのは、張子が波那を「嫁」として扱わないことだ。指導もしない。
管理もしない。しかし強烈に関わってくる。この距離感は、どこか理想的な支援者像にも見えた。医療者は時に、

  • 正しく導こう

  • 間違いを修正しよう

  • 管理しよう

としすぎてしまう。しかし患者さんが本当に求めているのは、「あなたの人生を、あなた以上に信じている」という態度なのかもしれない。張子は波那に「こう生きるべき」とは言わない。むしろ、「好きに生きればいい。その人生を私は見てみたい」という姿勢で関わる。

その関係性には、不思議な回復力がある。


ACPともつながる物語

この作品を読んでいて、私はACP(アドバンス・ケア・プランニング)を思い出した。

ACPとは、単に延命治療の希望を確認することではない。本来は、「あなたはどう生きたいですか?」を一緒に考える営みだと思う。しかし現実には、

  • 家族の期待

  • 世間体

  • 「普通」

  • 医療者側の価値観

によって、本人の声が埋もれてしまうことがある。『マザーアウトロウ』は、そうした“役割”や“普通”の外側から、「自分の人生をどう生きるか」を問い直す物語として読むこともできる。


医療者自身もまた、「役割」で疲弊している

そしてこの小説は、患者だけではなく、医療者自身にも向けられている気がした。

医師、指導医、管理職、教育者、親、配偶者。私たちは多くの役割を抱えて生きている。

しかし役割を完璧に演じ続けようとすると、人は少しずつ疲弊していく。張子は、一度“ちゃんとした人生”に適応しようとして傷ついた人だった。だからこそ彼女は、派手な服や自由奔放さで、

「私はまだ、自分の人生を生きたい」

と抵抗しているように見える。その姿は滑稽でありながら、とても切実だ。


最後に

『マザーアウトロウ』は、単なる嫁姑小説ではなく、「役割を超えて、人はどう生きるのか」

を描いた物語だと思う。

そして医療とは、本来、その人が“その人自身”として生きようとする営みに伴走する仕事なのかもしれない。“人間そのもの”を考えさせられる作品だった。