佐藤正午「熟柿」を読んで(ネタバレあり)
「人間の弱さ」の熟考
事件は決して派手ではない。大きなどんでん返しがあるわけでもない。しかし、静かに、ゆっくりと、人間の弱さが胸に染み込んでくる作品だった。
この小説は、一言で言うと「轢き逃げ事件を起こした女性の物語」である。
主人公・市木かおりは、妊娠中、雨の夜道で老婆をはねてしまう。そのまま逃走し、逮捕され、服役する。服役中に息子を出産するが、その後、母親として生きることを許されないまま、長い年月を過ごしていく。
しかし、この小説が本当に描いているのは、「人は、壊れたあと、どう生きるのか」である。
「なぜそんな行動をしたのか」
医療の現場でも、私たちはしばしばそう感じる。
- なぜ受診しなかったのか
- なぜ薬をやめたのか
- なぜ助けを求めなかったのか
- なぜ嘘をついたのか
外から見ると、もっと良い選択肢があったように見える。しかし『熟柿』は、人間は追い詰められると、必ずしも「正しい行動」を取れないことを、驚くほどリアルに描いている。
事故直後のかおりもそうだ。恐怖、妊娠、夫との関係、孤独、混乱。それらが一瞬で押し寄せたとき、人は合理的に行動できるとは限らない。これは、決して特別な人の話ではない。
むしろ「普通の人間」の話なのだと思う。
「寝たふり」をした夫
この小説の中で、私が強く印象に残ったのは、事故当夜の夫の存在だった。夫は助手席で眠っていたことになっている。しかし後半、その「眠り」が、単純な眠りではなかった可能性が示される。彼は気づいていたのかもしれない。しかし、その瞬間、現実を直視できなかった。この「寝たふり」が、実に人間的だった。もちろん、ずるい、卑怯とも言える。
しかし同時に、「わかる」とも感じてしまう。
なぜなら人は、人生を決定的に変えてしまう瞬間に、しばしば沈黙するからだ。本当は聞きたい。本当は確認したい。しかし、言葉にした瞬間、すべてが壊れてしまう。
だから、人は時に「寝たふり」をする。
医療現場でも似た瞬間がある。重い病気を前にした家族。予後を薄々感じている患者さん。
誰もが何かを察している。しかし、誰も決定的な一言を口にできない。あの宙吊りの時間。
『熟柿』は、その空気を非常に繊細に描いていた。
「熟柿」というタイトル
このタイトルがとてもいい。熟した柿は、無理に取ろうとすると崩れてしまう。自然に落ちるのを待つしかない。かおりは、息子に会いたくて焦った。しかし、時間が熟していなかった。そして17年という長い時間が流れる。その時間は、失われた時間でもある。しかし同時に、人が変わるために必要な時間でもあった。医療でも、「今すぐ解決すること」より、「待つこと」が重要な場面がある。
・ACP
・グリーフケア
・依存症
・慢性疼痛
・家族関係
すぐに答えを出そうとすると壊れてしまうことがある。
完全にはやり直せない
この小説には、「完全な救い」はない。死者は戻らない。失った時間も戻らない。傷ついた関係も、元通りにはならない。しかし、それでも人は生きていく。壊れたまま、新しい関係を作る。後悔を抱えたまま、誰かを思い続ける。傷を残したまま、それでも前を向く。私はそこに、人間の本当の「回復」を見た。医療も同じなのだと思う。私たちは、すべてを治せるわけではない。完全に元通りにできるわけでもない。それでも、
- 痛みを抱えながら生きる
- 障害を抱えながら笑う
- 喪失を抱えながら人とつながる
そういう回復を、日々支えている。
『熟柿』は、罪の小説である。しかしそれ以上に、「弱い人間が、それでも人生を生き続ける物語」だった。そして私は、この小説を読みながら、何度も患者さんたちの顔を思い出していた。