ある男 平野啓一郎著

今回は小説です。前著「マチネの終わりに」を読み、素人にはまねできない決して難しくはないが詩的にも聞こえる言葉選びが素晴らしい作家さんだな。と思い、この作品を手に取ってみました。

前作のラブストーリーとは違い、ミステリー、ラブストーリー、ファミリー感を出しつつ、人の本質にまで追求する、とっても考えさせられる作品でした。

まずは、出版社サイトからリンクした、作者の声から今回は初めてみます。

愛したはずの夫はまったく別人だった

愛する夫の1周忌に現れた、疎遠だった亡き夫の兄、恭一は仏壇の遺影を見て、「この遺影は弟ではありません」

愛した夫は誰だったのか???

というミステリー小説のような設定で話は始まります。

しかし、この小説はこの「ある男」探しのミステリー小説ではありません。面白いことに主人公は妻の里枝でも兄の恭一でも、「ある男」でもなく、ある男探しを頼まれた弁護士の城戸という人物です。

作者も序文でこう述べています。

「読者は恐らく、その城戸さんにのめり込む作者の私の背中こそ、本作の主題を見るだろう。

読者はまた恐らく、この序文のことが気になって、私がそもそも、バーで会っていたあの男は、本当に「城戸さん」なのだろうかとも疑問を抱くかもしれない。それはもっともだが、私自身はそうだと思っている。」

違う人生をもしも生きれるならば

小中学生の頃、「転校生」と出会ったときに。羨ましいなと思ったことはありませんか。

「もし、自分が今転校したならば、これまでとはまったく違う性格で友達作りをしたい。」と思っていました。転校は出来ませんでしたので、中学校、高校に上がるときは最大のチャンス、これまでと違う私になる。と意気込んでいました。

 

環境が大きく変わるとき、本当の自分って今の自分以外のもあるのではないか?

 

この作品の「ある男」は亡くなった"谷口大祐”ではありません。

ある男とはどのような人物か、なぜ谷口大祐にならなければならなかったのかを巡って弁護士の城戸は奔走します。

夫を亡くした里枝にしろ、弁護士の城戸にしろ、大変複雑な過去の中、今を生きています。在日3世という城戸の背景には、反日運動をふくめた政治情勢が心にズシズシと刺さりながらも、日本で生きぬくために弁護士の道に進み、結婚、子供を授かります。一見幸せそうな家庭ですが、目に見えないもやもやと夫婦とはなにか、に悩みつつ、この事件を担当します。

 

私も、「ある男」になってしまったら?

 

そう、だれでも1度は考えたことのある。

もし、自分が違う人生だったら?

もし、あの人と出会わなければ?

もし、この職業を選ばなければ?

もし、日本人ではなく、違う国で生まれていれば?

 

と考えてしまうのです。

子育て世代のアラフォー世代の人はこう考えるのでしょうか?

もしこの妻(夫)を愛してなければ、私は今頃・・・・

病院で出会う患者さんも「分人」

作者平野啓一郎氏がこの本をテーマに述べたかったのは恐らく、個人と分人という考え方。

病院では日々たくさんの患者さんと初対面を繰り返します。外科系の医師と違い、内科・総合診療科医は話を詳細に聞く「問診」を診療の基盤に起きます。出会ってほんの数分の間に仕事のこと、家族のこと、人間関係のこと、そして疑わしい疾患によっては性生活のことまで話を聞き出します。もちろん、聞き出した情報が必ずしも正しいと信じないことすらあります。

そこで思うんです。病院に来た、病める人は必死に「患者」を演じていると。医師である私も、必死に「医師」を演じます。

「同性と性行為しますか?」「アナルセックスしますか?」「家族内で暴力はありますか」「職場でいじめにあっていませんか」

このような話が、日常の会話で出ることはありません。

医師になっている時間は、自分のもう一つの「分人」です。

よくなった患者さんともしスーパーで会えば、そこには医師である分人ではなく、買い物に来た私と出会うことになるのです。

 

病める人が必死に患者という分人を演じる病院という世界は特殊な空間で、我々はある意味冷静に医師・看護師といった分人を演じることが必要なのではないか。

小説ですが、ものすごく考えさせられた1冊でした。